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子宮頸がん・不妊治療を乗り越えて出会えた命

北海道大学病院(以下、北大病院)産科・周産母子センターの先生と同院で出産した方のお話をお届けします。


今回は、准教授の馬詰先生と助教の朝野先生、産科病棟の春木看護師長と長内看護師、2023年に男の子を出産した石掛さんの5名のお話しです。


子宮頸がんのステージ1B1期からの治療や不妊治療など、8年にわたる治療を経て、石掛さんは待望の出産を迎えました。この記事では、子宮温存治療から始まり、赤ちゃんを授かるまでの石掛さんの軌跡をお伝えします。




-本日はよろしくお願いいたします。早速ですが、自己紹介からお願いいたします。


石掛さん:石掛です。私は今年で43歳になりました。朝野先生と出会ったのは2016年ですね。2016年に子宮頸がんになりまして。


朝野先生:1B1期で、見た目でわかる状態でした。子宮頸がんの場合、教科書通りだと子宮全摘出になるんですが、赤ちゃんがほしいという希望があって。

当時大学院に着任して間もない頃でしたが、子宮を残していいのかどうか、どうやったら赤ちゃんができるかをすごく調べました。


石掛さん:それで最初に円錐切除手術をしました。



-春木看護師:北大病院で受診をすることになった経緯は?


石掛さん:自分で自覚症状があったんですよね。出血があって、でも出血は女性の生理などもあるから、自分は全然大丈夫だと思っていました。

私は美容師で、長い拘束時間と過酷な立ち仕事の接客業をやっていました。体力に自信があって、自己管理もしていました。でも明らかに異常な出血が続いていて、今の旦那さんが『病院に行け』と言ってくれて、実家の近くにレディースクリニックにいきました。


そしたらそこ先生の顔色が明らかに深刻そうで。検査結果を聞きに行った時に、『北大か渓仁会、どちらがいいですか?』と聞かれました。それでそのまま北大に来ることになりました。





-春木看護師:北大病院を受診することになった、当時の心境は?


石掛さん:結構過酷な業務に携わってきたので。専門学校を卒業して就職氷河期だった1990年代は大変な時代でしたから、病気と言われてもびっくりしませんでした。『やっぱりね』みたいな。

独立して自分でペースで働いていこうとしていた時期でしたが、9月に北大で初めて受診して、12月には手術を受けました。


ただ、最初に先生に診ていただいた時は、ショックが大きかったです。今でも耳に残っていますが、『ああ、できものができてるね』と言われて、3日以内にMRIを撮って、『白くなっていますね』と言われました。『やっぱりな』と思いつつ、説明を受けた時『死ぬかもしれない』と思いました。今でも手が震えることがあります。


でもなんか変な自信があって、『これだけ人のために動いてきて、自分が死ぬわけがない』とも思ってました。美容師として、結婚・就職・入学・卒業…様々な人生の転機のサポートしてきました。これだけ自分の身を削って仕事をしてきたのに、まだ終われるわけがないと。


手術や慣れない入院生活は大変でしたが、窓口になってくれた先生たちが励ましてくれました。北大病院の先生たちがいなかったら、私は今日ここにいないと思います。北大病院の先生たちはどんなことがあってもサポートしてくれる、患者第一という考えなのだなと思いました。



-子宮頸がんの手術後、不妊治療について教えてください


石掛さん:2020年に一度自然妊娠ができましたが、7、8週目で自宅で流産してしまいました。その後ポリープの切除など、産科に入院するまでの間に5回手術をしました。


不妊治療は段階があるのですが、人工授精がうまくいかなかったので、体外受精へと進みました。卵を採取して病院で受精させて、その受精卵を移植するという形で、何度も挑戦しました。ペースでいうと3日に1回、年間で130回も受診していました。


そして昨年ようやく妊娠が成功しました。初めて北大病院に来てから8年が経っていました。不妊治療は時間も費用もかかる大変なものでしたが、北大病院の先生たちや看護師さんたちの支えがありました。




-妊娠が成功して、産科に移ってからは?


石掛さん:早く生まれると臓器の発達が十分ではないというリスクがあるので、少しでも長くお腹の中で育てるを考えて、140日ほど入院しました。

妊娠糖尿病になってしまったのですが、血糖値のコントロールも悪く、食事制限がきつかったです。


馬詰先生:最終的には36週で2,500グラムでした。


石掛さん:毎週検査をしてもらって、夜中でも24時間何かあったら診察してもらって、産科の先生・看護師さん全員にみてもらったと思います。



-出産までのリスクは他にどのようなものがありましたか?


馬詰先生:早産ですね。あと手術のリスクです。本来の子宮は巾着袋のような部分が長いのですが、子宮頸がんの手術で切除された部分があり、そこには人工の糸が入っているだけなので、容量が少ないんです。ばい菌が逆流して入ってきやすいから、感染のリスクがありました。


あとは、人工の糸で縛っているから、本来なら妊娠後期にもっと風船のように膨らむはずが、きつく縛られて無理やり抑えられている状態なので、ずっと点滴が必要でした。


石掛さん:それが一番辛かったです。最初の1週間は手の震えが出ました。もともと甲状腺が悪く、手の震えが出やすかったんですが、書かなければならないものがあっても、ボールペンでちゃんと書けないような状態でした。


見た目は普通に見えることでも、自分で実体験するとやはり辛いものです。本当に全員の看護師さんと全員の先生にお世話になったと思います。




-出産まで、長内看護師はなにか心がけていたことなどありますか?


長内看護師:石掛さんのこれまでの経過を受け止めて、何か変化があったらすぐに顔を出すようにしていました。助産師と二人で担当させてもらっていたので、二人でいつも『何かあったらすぐ顔を見に行こうね』という約束をして、何もなくても顔を出したりもしていました。常にみんな見守っているということを伝えるようにしていました。私たちも本当にいつ生まれるか誰もわからない状況でした。


石掛さん:早産で小さく生まれて亡くなってしまうかもしれないと言われていました。これまでに何度も妊娠できなかったという経緯があったので、妊娠した喜びよりも『どこまで行けるのだろうか』という気持ちの方が強かったです。



-出産の瞬間はどうでしたか?


石掛さん:出産は帝王切開でした。長内看護師が帝王切開の時にサポートに入ってくれて、今まで白い服を着ていたのに、『手術室の服に着替えてくるね』と言って、手術着姿で現れて、『じゃあ始まりますよ』と言ってくれた時、もうその時点で感動してしまいました。


手術室に入るまでの前日も、工藤先生や他の先生もたくさん見に来てくれて『明日頑張りましょう』と励ましてくれました。


壮絶で本当にドラマのようでした。でも私としては、長期で外来や病院に通っているから、先生たちや看護師さんたちとは顔見知りで、全然不安がありませんでした。


出産後、最初にNICUで預かってもらった時、生まれた直後は少し無呼吸の症状がありました。車椅子で赤ちゃんに会いに行ったとき、たくさんの管を外されて、2,500グラムというこんな小さいサイズの赤ちゃんを渡された時は、手が震えました。





-退院してから、一緒に暮らしみてどうですか?


石掛さん:今の生活は流れ作業です(笑)大きな病気やウイルス感染もなく、今は暑くなってきて大変です。


名前は『広都(ひろと)』という素敵な名前をつけました。『広い』という字を使って。『都』は東京都の『都』。広がっていく、栄えていくという意味と、私の家系は背が高い家系なので、体も大きくなっていくだろうなと。


また夫婦にとっては、英語でいうところのヒーロー、この子が来てくれたことは私達にとってはヒーローだねという意味を込めて、この名前をつけました。



-将来お母さんになろうと思っている人にメッセージを!


石掛さん:母親になれたのも、北大病院の皆さんに支えられたからです。私一人では絶対に無理でした。旦那さんもそうですが、先生とサポートしてくれる看護師さんがチームで連携していて心強かったです。本当に通ってよかったと思います。信じて諦めなければ、このように願いが叶うんだと実感しました。


-ありがとうございました!

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