北海道大学病院(以下、北大病院)産科・周産母子センターの先生と同院で出産した方のお話をお届けします。
今回は、准教授の馬詰(うまづめ)先生、当時の看護師長である三上看護師長のおふたりと、2021年9月に第二子の女の子を出産した輪島さんの3名のお話しです。
輪島さんが出産した2021年は、海外への渡航禁止など新型コロナウィルス(以下、コロナ)がまだ世の中で猛威を振るっていた頃。馬詰先生たちの産科も例外ではなく、コロナによる脅威に終わりが見えない状況下で、職務にあたっていました。そのような中で、輪島さんが、どのような経緯を経て出産に至ったのかをお伝えします。

-本日はよろしくお願いいたします。早速ですが、輪島さんは妊娠初期から北大病院の産科を受診を?
輪島さん:いえ、第一子を産んだ別の産院で検診を受けていました。順調に妊婦生活を送っていたのですが、2021年6月の妊娠29週目で発熱があり検査したところコロナの感染がわかったんです。その時は、北大病院がコロナ患者の妊婦のほとんどを受け入れていたので、保健所からの指示で、北大病院からの連絡を待つこととなりました。
三上看護師長:保健所から連絡を受けて、産科のスタッフが電話し「明日、救急車で迎えに行きます」と伝え、入院の説明なども合わせて行っていましたね。
-この頃は、コロナ患者は増加傾向でしたか?
馬詰先生:ウィルスがデルタ株に変わった時期で患者さんの数がグッと上がったんですよ。コロナに感染した妊婦さんも増えていたので「産科のコロナ病床が足りなくなる」と、病院側と話をして病床を増やそうとなったんです。そこで、元気な妊婦さんたちには、他病院の産科や産院に転院してもらうことになりました。
三上看護師長:苦渋の決断でしたよね。コロナ感染した妊婦は、分娩や帝王切開が必要になるので感染対応が複雑で、その頃はほとんどの病院で感染妊婦さんを受け入れていませんでした。そのため、感染妊婦さんたちのほとんどが北大に来ていました。ですので、その人たちを優先しないとっていう気持ちはあったんですけど…。転院で不安になったり、北大病院で産みたかった妊婦さんもいたと思うので、その方たちの希望を叶えてあげれなかったのは、申し訳なかったです。だけどそれと同時に「コロナ患者の妊婦さんは必ず救う」という、強い使命感にも駆られましたね。
-ご協力いただいた妊婦さんたちには感謝ですね。
馬詰先生:現場の内情が全て外に正確に伝わるわけではないので、一時期は「北大病院がコロナ妊婦以外を受け入れない」と批判の対象になることもありました。しかし次第に僕たちの取り組みを評価する声があがりました。

-産科は、当時どのような状況でしたか?
三上看護師長:輪島さんが入院するちょっと前までは「訪室時は最低限の接触で」と決められていたので、妊婦さんたちへの看護ケアも短時間だったんです。病室から患者さんの咳込む様子が聞こえてくるのですが、そばにいて背中をさすってあげることもできない状況でした。本来、助産師や看護師は患者さんのケアのために働いているのに、それができないの状況というのは働いている意義がわからないというか、本当に辛い、悲しい気持ちが湧いてきて「私はなんのためにここにいるんだろう…」と、助産師・看護師が泣いていて…。
そこで「本当に短時間じゃないといけないのか?」と、「産科病棟よりもっとケア度の高い、高齢者や重症者の多いコロナ専用病棟ではどうしているのだろう」と、当時の副看護師長と一緒にコロナ病棟の看護師長に相談して、スタッフ座談会を開催したんです。そうすると「手洗い消毒や個人防護具の着脱など、感染対策を徹底すれば大丈夫」と、他病棟のスタッフの意識やケア上の工夫を知ることができたんです。それからは「コロナの障壁に負けずに、私たちが大切にしている看護ケアをしっかりとやろう」と、感染対策を徹底して、妊婦さんのケアに力を入れていけるようになりました。
-産科スタッフの方たちも少しだけ動きやすくなった頃に、輪島さんが入院したんですね。
馬詰先生:悪化する傾向にある状態でした。というのも、コロナ患者さんの情報は集まっていたので「この患者さんは悪くなるかもしれない」という傾向だけは掴んでいたんです。輪島さんは、採血の結果が芳しくなかったので、急激に悪くならないかを心配していました。
輪島さん:確かにその時、4人部屋にいてまわりが退院していく中、私だけが部屋から出られなくて「もしかして…」とは思っていました。
馬詰先生:見立ては的中し、輪島さんはコロナによる肺炎が悪化し酸素濃度の数値が低くなっていたんです。本来であれば、ICUで人工呼吸器管理による治療を行うのですが、空きがない状態で…状況がさらに悪化すれば、赤ちゃんも帝王切開で産むことになり、その場合同じくICUと人工呼吸器が必要だったんです。その状況だけは回避しようと、僕と三上看護師長は夜間を通して、鼻から酸素を大量投与する機器を使って、輪島さんの身体の向きを定期的に変えて、酸素濃度を保ちました。

三上看護師長:身体の向きを変えた時に、酸素濃度が急激に下がってしまったことがあって、輪島さんパニックになった時がありましたよね。翌日、少し体調が落ち着いた時に「本当に苦しかった」って輪島さんは言ってて…「生きて、赤ちゃんをお腹の中で大きくしてから産みたい」とも言っていました。
馬詰先生:「私、死なないですか?」って、輪島さん1回だけ聞いたよね。僕は「死なない!死なない!」って答えたけど、あの日の一言すごく覚えている。
輪島さん:私はあの時、馬詰先生が言ってくれた「もし赤ちゃんを産む事になっても、ここは全て対応出来る。赤ちゃんを助けられるから安心して大丈夫!」と、言ってくれた事を覚えています。その言葉がとても心強く感じました。
馬詰先生:あの時まだ輪島さんの赤ちゃんは体重が1,000g切ってたから…。お腹の中で赤ちゃんを大きく育てるのがベストだけど、産まなきゃいけない人には「頑張ろう」って声かけするようにしていますね。後遺症の心配はあるけど、もう産まなければならない状況下の人にリスクの話をしても…病は気からとも言うし。

-関わった全員でコロナを乗り越えたのが伝わってきます。退院後、輪島さんは元の産院に戻ったのですか?
輪島さん:先生方からも「元の産院に戻ってもいいんだよ」と、声をかけてもらったのですが、馬詰先生たちがいる産科で産みたいと希望しました。入院してお世話になったというのもありますが、スタッフのみなさんの連携に驚くことが多く、安心感があったんですよね。
三上看護師長:スタッフが記載する看護記録や看護計画には、ちょっとした日常会話から得られた情報も事細かく書いてありますね。「輪島さんは前向きで頑張ってしまうから、無理をさせないように」と、その方の状況や傾向から配慮することも記されていることがあります。
輪島さん:入院中、ちょっとした会話の中で赤ちゃんの名前を話したんです。それが翌日にはもうスタッフの皆さんが知っていて、お腹の赤ちゃんに名前で声をかけてくれたのには驚きました。
三上看護師長:そういったことを覚えててくれるのは嬉しいです。コロナ禍で元気な妊婦さんの分娩を中止していましたが、その頃には通常稼働に戻っていたので、輪島さんの希望を叶えることができたのもまた嬉しかったですね。
-いよいよ出産を迎えるんですね。
輪島さん:事前に助産師さんとバースプランの確認があって、私の希望は立ち会い出産のほかに「赤ちゃんと私の2ショットを撮ってほしい」って伝えたんです。第一子出産時の写真を見返すとちゃんと写っているものがなくて、心残りがあったんですよね…。いざ出産を迎え、私は夫の手ではなく、コロナの時にお世話になった助産師さんの手を握り、出産しました(笑)。産まれた赤ちゃんとの2ショットはバッチリな上、先生がビデオカメラを回してくれていて、すごくアットホームな出産を経験することができましたね。
馬詰先生:輪島さんの出産は、少し特別だったよね。「あのコロナを乗り越えた赤ちゃんだ」っていうのはやっぱりあったし。元気に産まれて本当によかった。

-あの危機を乗り越えての出産ですから、感慨深いです。
輪島さん:妊娠当初から自身の年齢含めやっぱり不安に感じる事は多々あって。今回コロナがきっかけで北大病院にお世話になったのですが、「何があってもこの病院なら診てもらえる」という安心感がありました。私自身も自分が関わるまでは、北大病院の産科は普通の妊婦は受け入れていないと思っていましたし、友人たちから「どこで出産したの?」と聞かれて、北大病院と答えると「なにかあったの?」と聞かれることも多いですね。
三上看護師長:そう、あまり知られてないのですが、普通の妊婦さんも受け入れているんですよ。今は、女性が一生に一度に出産するかしないかなので、エステや豪華なディナーなどの付加価値を重要視するのもすごくわかります。ただ、誰もが一番に望んでいるのは、赤ちゃんとママの健康なので、そういう意味ではスペシャリストの揃うこの病院での出産は安心感があると思います。
馬詰先生:あとここの先生やスタッフはみんな優しいですよね。僕は立場上いろんな病院に行くことがありますが、ここの人たちは優しいなと感じることが多いです。でもその話を、後輩の医師に話したら「そうですね、優しいですね!アクが強いのは馬詰先生だけです!」と言われました。
三上看護師長と輪島さん:あはは(笑)
-ありがとうございました!